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会場の金座ボタニカは4階建ての元社員寮を改装したスペース。
デザインオフィス、雑貨店の他に大小のギャラリーがあります。住居だったスペースだけに美術品の展示施設として必ずしも使い勝手が良いわけではありません。ですが、その制約が魅力であり、展示の醍醐味でもあります。
静岡市での、はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト成果展は、この金座ボタニカさんを会場にお借りしました。静岡大学が主催しているアートプロジェクト「めぐるりアート」の会場としても活用されています。
静岡での成果展は、「めぐるりアート」参加作家のアーティスト乾久子さんがつないでくださったご縁によるものです。震災の年、「会津・漆の芸術祭2011」に参加してくれた乾さんがワークショップ「くじ引きドローイング」を継続していることを思い出したのは、はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトの一つ「豊間ことばの学校」のプログラム策定の時でした。
「豊間ことばの学校」は、震災の被害が甚大だったいわき市豊間の豊間小学校が取り組んでいる、いわゆる放課後授業です。学校から依頼されたテーマは学習の基本である「ことば」でした。
さあ、言葉とアートを結ぶ「くじびきドローイング」の出番です。
準備と本番に何度もいわき市に足を運んでくださった乾さん、そして、その時に静岡大学の白井先生、平野先生も同行してくださいました。
こうして生まれた静岡・福島のご縁は、さらに強さと広がりを増して浜松市のNPOクリエイティブサポートレッツ、鴨江アートセンターさんのご協力もいただけることになりました。まさに県を越えたアートプロジェクト同士が結んだ地域間交流です。
さて、こうして整った地盤があって、いよいよ成果展は開催されました。

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(「岡部昌生フロッタージュプロジェクト」から、岡部昌生さんのフロッタージュ作品)

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(「福島写真美術館プロジェクト」から、片桐功敦さん(左)、本郷毅史さん(右)の写真作品)

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(「福島写真美術館プロジェクト」から、赤阪友昭さんの写真作品)

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(「夢の学び舎プロジェクト」から、参加してくれた子供たちの作品)

写真美術館プロジェクトに参加している本郷毅史さんは浜松市出身でもあり、展示作業にご協力いただきました。ありがとうございました。
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会期中会場に入ってくれるスタッフの静岡大学のお二人は2時間を超える事前レクチャーに真剣に耳を傾けてくれました。
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オープン2日目に行ったトークセッション「アートで伝える考える 福島の今、未来」は60名近い参加者があり、会場は満員御礼のうれしい悲鳴でした。
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(会場から溢れるほどの参加者でした)

静岡大学の白井嘉尚先生、福島祝いの膳の担当アーティスト中山晴奈さん、そして乾久子さん、モデレーターは赤坂憲雄実行委員長がつとめました。トークの熱い内容は、後日記録集にまとめる予定です。トーク終了後は慌ただしく福島へ戻らなければなりませんでしたが、参加者の何名かはその後も数時間の議論を続けたそうです。
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(講師の乾久子さん)
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(赤坂憲雄実行委員長)

あっという間の2時間半でしたが、静岡の方々からは福島への理解を、静岡の方々には福島の教訓をお伝え出来たのではないでしょうか。
成果展は静岡に続き、京都市、浜松市にもおじゃまします。

(川延安直)

2014年、アーティスト安田佐智種さんが進めてきたのは、津波で流出した住宅の基礎の記録。

今年度は、 これまでに制作した作品に大切な厚みを加えます。

南相馬市、浪江町で撮影した住宅に暮らしておられた方々にお会いしお話しをうかがい、そこにお住まいだった一人一人の暮らしの記憶をとどめる作業を進めます。

11月はじめ。訪ねたのは浪江町請戸。海辺の町だった請戸、ここにあった住宅はすべて流されました。

そして、そこにあった人々の暮らしはすべて大きく変わってしまいました。

住まいを失った方々は請戸を離れ、散り散りに避難生活を送っています。

元の住宅にお住まいだった方にお目にかかるのは簡単ではありません。

初めてお話しをうかがえることになったKさんとの出会いも偶然でした。そして幸せな偶然でした。

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小春日和の請戸のKさんのお宅をお訪ねしました。かつて庭を眺める縁側だった場所に腰を下ろしたKさんは、安田さんに向かって、その家での暮らしをポツリポツリと語ってくださいました。

帰って来る息子夫婦のために広くした風呂のこと、海を眺めるためにしつらえた窓のこと、おばあさんの部屋の横の坪庭のこと。

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秋の日差しはすぐ暮れる。夕陽に照らされるKさんは、遠くを眺めながらつぶやきました。

「こんな景色は、ここでは見られなかったなあ。」

安田さんは、現在のお住まいのこともKさんに尋ねます。

少し小さくなったお宅ですが、庭を丹精込めて手入れしておられるとのこと。雨水や風呂水を無駄にしない水遣りの仕組みをご自分で作ったことを楽しそうに話してくださいました。

奥さんのお気に入りの草花に水をやるのが、日課だそうです。

哀しみを抱えながらも、日々の暮らしを取り戻そうとするKさんの強さが胸に残った請戸の一日でした。

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(川延安直)

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(間方地区へ向かう1本道から見る三島町の山の風景)

福島は今後どこを目指し、どのような姿勢で歩んでゆくべきなのか。
見出すためにはまず、今の福島をきちんと視て聞いて知る必要があるのではないかと考えます。当たり前のことのように思えますが、なかなか難しいことです。

震災と原発事故を経験した福島の変わりゆく姿、変わらない姿を写真として記録に残す、「環境記録プロジェクト」の招聘作家、赤阪友昭さん。
県内各地の山々や津波被害の爪痕が残る被災地、原発事故の影響で立ち入りを制限されている区域などを訪れ、そこにある福島の姿を様々な角度から視て感じ、カメラにおさめ続けてきました。

人間としての目線だけではなく、自然からの目線で福島を視る。
赤阪さんの作品に添えられた言葉には、
人間の目線で自然をいじくりまわし原発というとんでもないモンスターを作り上げてしまった事をこんなにも反省して生きているつもりでいたのに、それでも所詮自分はまだまだ人間の目線で自然を見て、接してしまっているままなのだと気付かせてもらえる事がとてもとても多いです(私個人の言葉になってしまいましたが)。

今年度の赤阪さんの制作地は会津地方三島町の最も奥にある「間方地区」。山と共に生きる間方の皆さんから日々の暮らしや自然との付き合い方についてお話しを伺いながら、福島の自然を学ぶきっかけとなる写真作品を制作します。

前回の滞在は8月。お盆の時期に合わせ、地域に伝わる風習などを取材しました。
間方地区の皆さんは年中行事をとても大切にしてらっしゃいます。ご先祖様、八百万の神を敬い、祈念することは、厳しい環境の中で自然と共存しながら暮らす皆さんにとって当たり前の習慣です。代々続けられ守られてきた年中行事は今もしっかりと皆さんの生活に根付いています。

今回の滞在は9月の終わり。
台風が近付いていたため不安定な天候が続きましたが、ほぼ毎日山に入りました。
案内人は、間方のまとめ役であり、山ブドウの蔓などを使った編み組細工の職人でもあり、山菜・茸採りの名人でもあり、マタギでもある「山の人」、菅家藤一さん。奥会津の山に詳しい方として藤一さんの右に出る者はいないとも言われています。

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藤一さんのご自宅に宿泊させていただき、毎日藤一さんのご家族と過ごした赤阪さん。まるで田舎の親戚の家に来ているようだとおっしゃっていました。私も、今回初めてお邪魔しましたがまったく同じことを感じました。

山に入った藤一さんは60歳を過ぎているというのに赤阪さんも追いつけないような軽快な足取りでどんどん山を登ってゆくのだそうです。熊の巣穴を案内していただいたり、松茸採りに同行したりしながら、厳しくも美しい山の姿を写真におさめました。

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間方の初秋。少し冷たい澄んだ空気の中、静かに時は流れます。

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(山との付き合い方を語りながらビールを美味しそうに飲む藤一さん)

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藤一さんのご自宅のお隣にある作業場、工房間方から見える山の景色。自然を受け止め、山と共存して生きてきた間方地区の皆さんの暮らしは、福島が、日本が今後残し続けていかなければならない文化的財産であり、目指していかなければならないところでしょう。

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しかし、藤一さんは言います。
「松茸もな、今は頼まっちゃとき以外はほとんど採らないようにしてんの。なんぼ検査してだいじょぶたっつても茸だから。放射能だなんだって言われんべ。言われっちゃぐねぇがら。」

三島町は福島第一原発から西に約125km。関東方面でいえば茨城県水戸市までとほぼ同じ距離です。それを遠いとするか、近いとするか、簡単には言えませんが、そのような距離であるということだけは説明しておきます。

変わらないように見えるけれど、変わってしまっていることもあるのだと知りました。
山の生態系を第一に考え、山からの恵みを少しだけわけていただきながら、厳しい自然を受け入れ、自分たちも自然に受け入れていただくという形で共存を守り続け、自然に敬意を払いながら暮らしてきた人々。

藤一さんは、せっかく採った松茸を「放射能が怖いから食べたくない」と言われることについて「言われっちゃぐねぇ」とおっしゃっている訳ではないのです。

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(藤一さんは編み組細工に使う山ブドウの蔓を「(山から)わけてもらう」と話す)

赤阪友昭さんの次回の制作は11月下旬。
間方地区に暮らす地域の皆さんを撮らせていただき、年度内開催予定の展示に向けた最終制作へ向かいます。

(髙橋牧子)

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6日からいわき駅前、平商店街で3日間に渡り開催された平七夕まつり。天候にも恵まれ、商店街は沢山の人で賑わっておりました。

いわき七夕プロジェクトは、いわき市小名浜の下神白復興公営住宅と平市街地のフリースペースで6月から行っていたワークショップ型のプロジェクト。参加者の皆さんからあがったアイディアを元に、造形作家の「とっくん(竹内寿一さん)」にご指導いただきながら、平七夕まつりに向け、オリジナルの七夕飾りを制作してきました。
復興公営住宅に暮らす皆さんと平市街地の地元の皆さんによって、七夕飾り制作を通した新しい人々の交流が生まれる事を願い企画されたいわき七夕プロジェクト。
ついにその2つの七夕飾りのお披露目です。

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こちらの色とりどりのシーラカンスの造形は、平フリースペースで行ったワークショップで、平地区の地域の皆さんと、いわき市で多方面に渡り精力的に活動してらっしゃる団体「十中八九」さんが力を合わせて制作した造形飾りです。
造形飾りは、かつての七夕まつりでは良く見る飾りの種類だったそうですか、昨今は花紙のぼんぼりと吹き流しで作られた七夕飾りが定番となっています。懐かしさと新しさ、そしてこの圧倒的な迫力は道行く人の目を惹き付け人々を自然と笑顔に導いていました(ちなみに夜になると目がピカピカと様々な色に光ります)。
平に暮らす子供達のアイディアから生まれたシーラカンスの造形飾り。本気の大人達の力も加わり、ダイナミックで夢のある作品となりました。

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(平ワークショップの様子)
ウロコの部分はワークショップに参加してくれた皆さんが描いたイラストを切って貼り付けたもの。

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本来深海に暮らすシーラカンスが堂々と空を飛ぶ様子は、子供達の未来の無限大の可能性を表しているように見えました。

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そして、こちら。
真ん中の可愛らしい熊さんが象徴的な、とっても賑やかな七夕飾りは、小名浜の下神白復興公営住宅に暮らす皆さんと、「NPO法人3.11被災者を支援するいわき連絡協議会(みんぷく)」さんのサポートにより制作された作品。

下神白復興公営住宅は、富岡町、双葉町、大熊町、浪江町の4つの町から避難された皆さんが暮らしてらっしゃいます。元は別々の町で暮らしていた方々が、この七夕飾りを作り上げるというひとつの目標に向かい、知恵と技術を出し合い、団結し、約1ヶ月の間、毎日のように制作に力を費やしました。ひとつの作品を作り上げる為に同じ時間を過ごす事で、家族のような絆と新しい交流が生まれました。

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(下神白復興公営住宅ワークショップの様子)
福を集めると言われる「熊手」に、皆さんの想いと願い、懐かしき故郷の自慢の愛おしいものたちを目一杯詰め込んだ七夕飾り。
五穀豊穣の米俵、縁起物のぼぼ、富岡町夜ノ森の桜、双葉町の薔薇、大熊町のおーちゃんくーちゃん(これが真ん中の熊さんです)、浪江町の鮭、大堀相馬焼。
そして、千羽鶴。
どれも制作に携わって下さった住民の皆さんのアイディアです。

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初お披露目となった6日は大型バスを2台も貸し切り、皆さんで七夕飾りの吊り上げに立ち会って完成を祝いました。七夕飾りが吊り上げられた瞬間、自然と拍手が湧き上がります。その顔は皆、誇らしげな笑顔でした。

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どちらの七夕飾りも唯一無二の素晴らしい作品です。

震災により、福島は様々な伝統文化が失われつつあります。
私共、はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトは、失われつつある文化の灯火を絶やさぬ事を目的とし活動しているアートプロジェクトでもありますが、それと同時に、震災をきっかけに構築された人々のコミュニティから、新たな文化を創造する事も目的としています。
このたびこうして新しく生まれた文化交流が、これからも永く永く続いて行く事を願い、今後も出来る限り皆さんに寄り添って活動をして行きたい、して行かなければと、堂々と風になびく七夕飾りを見上げながら強く強く心に刻みました。

平七夕まつりでは、毎年七夕飾りのコンテストが行われます。今回制作された2つの七夕飾りですが、見事2つ共、審査員特別賞という素晴らしい賞を受賞する事が出来ました。
皆さんの想い、届いたようです。

(髙橋牧子)

いわき市平の七夕祭りでの発表を目指して、
いわき市平のフリースペースと復興公営住宅集会場の2カ所での
七夕飾りつくりワークショップが、順調に進んでいます。

下神白公営住宅集会場では、
この日、
講師のとっくんこと竹内寿一さんのワークショップ3回目が行われました。

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大熊町、双葉町、富岡町、浪江町のみなさんが暮らす公営住宅。
入居して間もなくの頃にはじまった
七夕飾りつくりワークショップは、
集まったみなさんの「初めまして」からスタートしました。

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どんな七夕飾りにするかのアイディア出しワークショップでは、
4つの町の自慢が幾つも。
大熊町の熊のマスコット「おーちゃん、くーちゃん」「梨」、
双葉町の「薔薇」、
富岡町の「桜」、
浪江町の「大堀相馬焼」「鮭」。

そして、入居者のみなさんの手作り自慢もたくさん出ました。
「流木アート」「紙紐カゴ」「紙の人形」「鞠」「ボボ」。

それらをみーんな集めた下神白ならではの飾りを作ることに。
全てを受け止め、集めてくれるのは…。
そう、福を集める「熊手」です。

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とっくんが来ない日も、
みなさん各々集会場に集まっての飾りつくりが、
どんどん進み、
「こうしたら?」「これもいいね」の
アイディアもどんどん膨らんでます。

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みなさんが本当に楽しそうに、
夢中で真剣に作ってらっしゃる姿に、
故郷への思いや、
何かを生み出すことの喜びが、
感じられました。

完成目標は8月3日。
8月6日、7日、8日の七夕祭りが晴れ舞台です。

みなさん、どうぞご覧にいらしてくださいね。

(小林めぐみ)

コミュニティアーティストの開発好明さんと取り組む南相馬市でのプロジェクトも今年で3年目。震災から4年を経て被災地でのコミュニティの状況とニーズも変化しています。北屋形神楽復興プロジェクト、うまままつりと展開した今年度のプロジェクトは、その名も「愛銀行」。コンセプトは「あいせること、あいしたいことを貯蓄して育てていくお金を使わない日本初の新しい銀行」。
地域のみなさんが自分の「できること」「かなえたいこと」「やってあげられること」「助けてほしいこと」などを蓄えていく銀行です。多くの「できること」が貯まった時、何かを「かなえる」ことができるはずです。
やがて地域の助け合いを生み出すワークショップは、自分のことを見つめ直す機会にもなります。

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5月24日第1回のミーティングでやってみたお試しワークショップでは、「闘病記を語れる。」「一晩中格闘技の話しに付き合える。」「美味い居酒屋を紹介できる。」などなどのできることが集まりました。

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6月28日第2回のミーティングでは一歩進め、開発さんによる愛銀行の通帳デザイン案が披露され、さらに看板、ステッカーなどのPR作戦を考えました。

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第2回ミーティングの翌日はいわき市に移動、いわき未来会議とNPOワンダーグラウンドのメンバーにも「愛銀行」のプレゼンを行いました。

ここまで来て残る課題は、「愛銀行」設立の要となる南相馬支店長の人選。プロジェクトを引っ張る支店長にはコンセプトを十分に理解、共感していただかねばなりません。
きっとすばらしい方にお引き受けいただけると信じていますが、もう少しの出会いと対話が必要なようです。
でも、この産みの苦しみが、すでに「愛銀行」プロジェクトなのですね。
秋からは本格始動の予定です。
興味のあるみなさん、是非お気軽にご参加ください。

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(川延安直)

岡部昌生フロッタージュプロジェクトの視点は、
震災・原発事故の記録に加えて、
福島のエネルギー史に広がってきています。

歴史を知ることは、
現在を知ることに繋がります。

福島でどのようなエネルギーが、
何のために、どのようにつくられていたのかを知ることは、
原発事故を客観的に理解し、
福島のこれからを考えるヒントをくれるはずです。

福島県の中央を南北に走る阿武隈山地には、
ペグマタイトという
高純度で成分を採取できる鉱床が横たわっています。
陶器の釉薬になる長石や、
ガラスの材料になる石英、
ジルコンなどの貴石、
水晶やアメジストなどの半貴石
その他の希元素鉱物などが大きな塊で見つかる言わば"宝の山"です。

福島の豊かな自然は、
歴史の中でまま蹂躙されます。

第二次世界大戦中、
ペグマタイトを抱える石川町では、
軍によるウラン鉱石の採掘と精錬が試みられていました。
その工場は、石川町でジルコン鉱床を見つけ
その開発に尽力していた丸之内鉄之助の新設したばかりのジルコン工場を、
命令により委譲させてスタートしたものでした。

岡部さんは、今回、
その工場跡の壁をフロッタージュしました。
戦時中の物資不足の中、至急で建設されたジルコン工場の壁には、
資材となったのでしょうか、
近隣の川底の砂に混じっていたと思われる物が混在しています。
川石、やきもの片。
手に触れるそれらに、
ピンクやグリーンの華やかな色を与えてから、
ジルコン工場の、そして理研の工場の壁であったコンクリートをなぞっていきます。

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2日間に渡る制作で生まれた大作は「ジルコン」と名付けられました。
それは、丸之内鉄之助への敬意であったのかもしれません。

石川町でのリサーチ・制作の2日目には、
岡部さんのフロッタージュによる表現の一番の理解者である
写真評論家・多摩美術大学教授港千尋さんが合流。
これまでの岡部さんの広島や北海道での活動の延長としての福島を
捉え直してくださいました。

また、石川町の教育長さんも、現場へ。
ジルコン工場跡による、
戦争教育を検討されていた教育長から、
強い理解と賛同をいただきました。

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ジルコン工場は、石川町の、福島の負の記憶かもしれません。
しかし、それは、その重荷に耐えつつ、
私たちに戦争の愚かさを伝えてくれています。
そして、この地に眠る鉱物の豊かさは、
人間とは全く異なる時間軸で作られた大地の偉大さを私たちに語りかけているのです。

(小林めぐみ)

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6月10日、飯舘村の記憶と記録プロジェクトの撮影リハーサルに飯舘村へ。写真家の岩根愛さんと飯舘村佐須の菅野宗夫さん宅へおじゃましました。はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトがいいたてまでいの会さんと協力して進めている「いいたてミュージアム」の一環です。

岩根さんはハワイの日系人コミュニティを取材するうち、かつて葬儀などの集合写真に使われていた360度カメラを発見、入手。震災後はハワイ日系人の祭礼で太鼓に魅せられた方たちの紹介で縁が縁を繋ぎ今は三春にアトリエを構えています。そのご縁は、はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトにもつながり、飯舘村の現状を360度カメラで捉えるべく今回のリハーサルとなりました。

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いいたてミュージアムでお世話になった村民の方たちの御自宅におじゃまし、周辺を一枚の写真に収めようという試みです。飯舘村の多くの方が土に親しむ暮らしを送ってきました。丹誠込めた田畑や日々親しんだ森や林が村の方たちの心を育みました。その姿を残したいと考えていたところに知った岩根さんの写真。
今後のいいたてミュージアムには村での暮らしを語る品々と一緒に岩根さんが撮影した飯舘村の写真が展示されるはずです。

それにしても田植が済んだ菅野さんの田と周りの山や森は初夏の陽光の中、なにもかもが輝いていました。東京電力福島第一原子力発電所事故はこんな美しい里も襲いました。菅野さんは飯舘村の再生のため大学はじめ様々な研究者と協力してデータの収集につとめています。正確な計測と情報発信が地域再生の第一歩と信じて行動する菅野さんの存在、そして菅野さんを取り巻く飯舘の野山と田畑、これを合わせ収めた岩根さんの写真を早く見たいものです。

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東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で、震災から4年以上が経過した今も全村避難中の飯舘村。はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトでは、一昨年前から、村の歴史や文化を子どもたちに継承して欲しいという願いから行われている、飯舘中学校の「ふるさと学習」という授業を追いかけています。

「ふるさと学習」では、村の方々や、村の歴史・文化に詳しい方々を講師に招き、1年生は飯舘村飯樋町の田植え踊りを習い、2年生は村に伝わる民話を学んで紙芝居を作り、3年生は村の食文化を知り食品を自らの手で作り出すといった授業を1年を通して行います。また、今年度は今まで以上に中学校全学年で連携をとり合い、上級生は下級生へ前年自分たちが行った活動を教えたり、下級生は上級生の活動のお手伝いをしたりし、「学ぶ」だけではなく「伝える」事にも力を入れています。

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先週5月29日は、1年生の「ふるさと学習」、飯舘田植え踊りの第一歩目。
飯舘中学校に、福島県文化財保護審議会委員で民俗芸能研究家の懸田弘訓さんをお招きし、田植え踊りとはどういった踊りなのか、どのような歴史があるのか、そして何故、それを自分たちが学び伝え繋いでゆくのか、その意味を理解するための講義が行われました。

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【上の写真は昨年度の飯舘田植え踊り古民家公演の様子です(現在の飯舘中学校2年生)】
飯舘村飯樋町の田植え踊りは、子孫繁栄と五穀豊穣を願って米作り作業課程を模擬的に演じた踊りで、270年ほど前に安達地方から入ってきたものと言い伝えられています。その踊りの種類は18にも及び、ひとつの地域にこれだけの数の踊りがあるのは大変珍しいのだそうです。
飯舘村は高冷地にあるため、昔から数年に1度というペースで冷害に襲われてきました。中でも、天明の大飢饉の被害は凄まじく、食べ物は底を尽き、植物の種すら取れず、飯舘村の人口は著しく減少。沢山のご先祖様方がその犠牲となったのだそうです。飯舘村に数多くの田植え踊りが存在する理由は、かつての村の人々が経験した辛く苦しい歴史からなのです。
天明の大飢饉以降も、飯舘村は度重なる凶作に苛まれました。
辛く苦しい年が明け、豊作に恵まれたと思った矢先、また冷害に襲われる。そういった厳しい土地だったのです。
それでも、田植え踊りは続けられました。どんなに苦しくとも、村の人々は願い、祈り続けました。

今、飢饉とは違う形ではありますが、飯舘村はまた辛く苦しい時代を迎えてしまいました。

故郷のご先祖様方が、何世代も前から繋ぎ続けて来た田植え踊りは、この厳しい今を生きねばならない運命を背負わされてしまった彼らに希望を残すために伝えられてきたのかもしれません。

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懸田さんのお話しを真剣な眼差しで静かに聞き入る子どもたち。自分たちが田植え踊りを学び繋いでいくその意味を、確かに感じ取っているように見えました。

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今年度のいいたて学校プロジェクトでは、昨年度、福島写真美術館プロジェクトのフォーラムにご参加くださった写真家の野口勝弘宏さんが、飯舘田植え踊りに向き合う子どもたちの様子を写真や映像に収め、その記録を作品として仕上げます。

(髙橋牧子)